酢づくりの職人として

酢づくりと向き合う-職人としてのこだわり

会名会社 丸正酢醸造元小坂 晴次/Kosaka Seiji

出典元: 月刊フードケミカル2011年2月発行に掲載されたものです。情報は取材時におけるもので、変更される可能性があります。

1.戦後、食酢製造を再開

 私は終戦の年、昭和20年に旧制商業高校を卒業し、戦時中は統制経済で国から最低限の原料が支給され、食酢も生活必需品として定められた地区に決められた量を配給として、組合から各家庭に支給されていた。
家業の食酢製造に従事した、終戦当時の非常に厳しい混乱期から脱した昭和23年頃、原料の供給も次第に整い自由経済が復活した。
しかし、長い間空のまま放置していた桶が多かったので、仕込ができるようになってからの大問題は、仕込んでも酢酸菌膜が発生しないことであった。いろいろ試してみたがどうしても酢酸菌が発生しないのである。そこで食酢組合員の中で情報を聞き、少しでも発酵状態の良い蔵があると聞けば頼み込んで、当時の蒸気機関車に乗り、タライのような桶を風呂敷で何枚も結び合わせた大風呂敷に包んで、菌の発生した酢を分けてもらいに行った。

 しかし、簡単には発酵が復活するものではなかった。何回も何店かを根気よく通って、何十回目かにポツンと菌の粒状のものの発生を見たときは、飛び上がらんばかりの喜びであったのは、今もはっきりと覚えている。以来、次第に発酵が軌道に乗ってきた。

 若い頃は都市の蔵元に偽名で勤め、酢づくりの詳細な手法を徹底的に身に付けていたが、明治・大正・昭和の初めの頃はおそらく酢の発酵・製造の原理・酢酸菌の習性が全くわからず、特に地方の酢屋は苦労したと思う。

 当時の酢屋を最も苦しめたのは、酢屋殺しの菌と言われた産膜酵母の発生であった。これは仕込み中の酢の糖分・アルコール・酢をすべて食ってしまい水にして、挙げ句の果てには腐敗してしまう。当時、酢屋一代といわれたゆえんであると思う。

 産膜酵母の発生の原因がわからなかった当時の地方の業者の酢づくりの歴史は、産膜酵母との戦いの歴史とも言える。

 私の酢づくりの職人としての経歴は65年となり、山あり谷あり酢づくりの険しい道を歩んできたが、先代の父は息子の私に手取り足取りの教え方は絶対やらず、『全部自分で考え自分で覚えろ』であった。

 だから私は若い頃は失敗また失敗の連続だった。しかし、失敗したら『よし、必ず復活してみせるぞ!』と闘志が沸いてきた。

 当時は教えてくれなかった親を恨んだこともあったが、その後視点を変えると、次の代の職人を鍛えるための親心と理解して感謝の気持ちに変えた。

 こうして不眠不休で酢づくりに専念した甲斐あり、戦前と同じたくましい酢酸菌が増殖、順調に発酵し出した。

2.木桶を用いる価値

 40年ほど前、木桶に変わる新しい容器(タンク)ができた。ポリタンク・ステンレス・ホーロータンク・FRPタンクの類である。

 業者はしきりに新しい容器を売り込みにきた。曰く、『木桶はもう古いですよ。今はもう新しい容器の時代ですよ』と言い、かなり説得力があった。

 木桶の問題点は欠減が5%あり、年間にするとかなり多い量であった。しかしこの欠減は酢づくりの菌が木の目を通して呼吸、酢酸菌の発酵上の最高の環境、最良の棲家をつくるために必要なことと私の脳裏に刻まれていた。

 しかし欠減5%は大きいと一時迷った。木桶の時代は終わった、新しいタンクに変えようかと見積もりまで取ったが、あるとき寝てから考えた。

 すぐやることは、木桶と新しい容器に同量を小さく仕込み結果で確かめること、これをやってから結果を出そうと思い、麹室のなかへ一斗入り木桶3本とポリ容器3本を全く同じ分量で、室の温度を仕込適温に設定して仕込んだ。

 1ヶ月経って、まず香りをみた。明らかに木桶の3本は芳香であり、ポリタンク3本はかなり劣った。できるだけ多くの人々に来てもらって判定させた。100%木桶で仕込んだ酢の良さに軍配が上がり、これで大きな確証を得た。

 さらに2ヶ月・3ヶ月経って、コク味・味に大きな差を確認、木桶の酢づくりに改めて確信を得たのである。これから木桶を大事に管理して守るべきと、固く心に決めたのであった。

3.酢づくりへの取り組み

 私は65年にわたる酢づくりを通して家業というばかりでなく、趣味といわれてもよいぐらいに熱中した。手に入る参考書を読み、東大の農芸化学科を出た実兄に学理的な面で多くのことを学んだ。

 また、酢づくりの職人に徹していた先代の父の失敗談をよく聞かされ、その事例を自流に考えてみた。ときには方々からいろいろな原料での酢づくりを頼まれた。自分で散々苦労し学んできたので、試しづくりはほとんど成功した。炭水化物(デンプン質)からであれば、何からでも酢をつくる自信がある。自分は酢づくりの奥義を極めたという自惚れでできていたが、あるときある書物に、人類の歴史はたかが5~600万年、細菌・微生物の歴史は40億年、抗生物質を発見したくらいで細菌に打ち勝ったと思うのは人間のおごり…と書いてあるのをみたとき、酢づくりの65年はほんの入口、これからが修行の身と心得ようと自分を戒めている。

 私の仕込蔵は木造・土壁・土間で、そこに木桶を設置している。その木桶は熊野杉の大木の中心から年輪の狭い固い部分からの材料を取り、桶職人が大桶に仕上げたものである。桶の種類は、造り酒屋が昔から付けたと思われる名称で使っている。

 大桶(30石入り)・細桶(18石入り)・天満桶(7石入り)・小きん桶(3石入り)・こしき桶(5斗入り)・ため桶(1斗入り)というような呼び方である。

 桶の管理が大変なのはいうまでもないが、時折ボタボタ急に漏れてくるときがある。昔からやっている木桶の漏れ止めの方法は、たいていは底から漏れているので、桶の下の狭い箇所に頭からもぐり込んで錐・ノミ・小刀・木槌・布を用いて電燈で照らして止める。桶の下の作業は、体がようやく入るような、身動きができないぐらいの狭いところでの作業で大変である。それに漏れ止めの技術が要る。体を左に右によじりながらの漏れ止めは、木桶を使う蔵人しかできない大仕事である。全身汚れ着に身を包みやっている。完全に漏れ止めしたときの喜びはひとしおである。

 発光状態がいったん良くなると、酢づくりの菌が桶にはもちろん、合掌造りの仕込桶、土壁・土間に棲みついているのである。蔵一帯が酢づくり菌の絶好の棲家である。

 当蔵では、各木桶に玄米酢・米酢・酒粕アルコール酢など、多くの品種を仕込んでいる。完成すればFRPタンクに移し、香味を良くするため引替と称してタンクからタンクへポンプで何度も移し替える。この過程は、酸素と混合しより深みのある醸造酢に仕上げる工程である。

 それから、仕込み中の木桶は絶対空のままではおかない。完成すればすぐに仕込むのが肝要である。空のまま置けないのは、菌が少しでも 弱体化するのを防ぐためである。

4.酢づくりのこころ

 ついでに申し上げると、醸造家にとって水は神様であると思っている。

 当地は熊野三山のひとつ那智山からの最高の軟水、最良の良水である伏流水に恵まれている。私は家業を長年支えてくれた名水に、朝6時に起床して灯明をあげ礼拝して、感謝の気持ちを捧げている。

 仕込桶に明治以来の歴史に残る大横綱の名を付けて、各桶に独特の相撲字で横綱の名称を書き貼布している。初代が生前、相撲の指導をしていたこともあり、創業者祖父への供養であり、二代三代と大の相撲好きであった趣味を仕事に生かせば、作品愛着という酢づくりの上での大きな利点がある。

蔵の内部

 『双葉山は今日も調子上々やな』とか『千代の富士の出足は特にええな』と快感を覚える(写真1)。

 65年にわたる酢づくりの中で感じるのは、蔵に棲む菌は気温や室内温度や大気の温度などのいろいろな環境に応じて、微妙に表情を変えていることである。私はもっとその表情に近づきたいと思う。そのため、心を無にして雑念を払い、精神統一をして菌の状態をじっと見つめる。

 熊野は修験道の聖地である。たまたま修験者が近くにいるので、頼み込んで話を聞きに行った。山岳佛教、険しい山中で身を清める荒行である。修験者の話に感銘を受けたが、最後に大きな法螺貝を出してきて、これは道具というよりは修験道そのものと言い、おもむろに法螺貝を目の前で吹かれた。私はその光景に魂を揺さぶられる、心が清められる感動を覚えた。そして精神統一の手段にはこれだと確信を持った。

 そして修験者に頼み込み何ヶ月か習いに行った。大体吹けるコツを覚えたのち、毎晩寝る前12時頃蔵に入り、熊野三山の神前に礼拝、おもむろに法螺貝を吹く。静まりかえった夜の霊気に身心が清められるのを覚えた。拍手をし灯明をあげ、私に取っての道場である仕込蔵に入り、塩を撒いてさらに清め仕込桶一本一本の菌の状態を目にすると、精神統一されたのか、菌の表情がわかるような気がしてきた。その頃から発酵状態がさらによくなってきた。

 余談ではあるが、私はこの方法は自分だけの精神統一法で他人には言わない・見せないと無心にやってきたが、かなり以前、某テレビ局が取材に来た。きれいな女性ディレクターが蔵に来ていて、いきなり『これは何ですか?』と机の上の法螺貝を見つけ、何のために置いてあるのか教えてくださいと追及してきた。男なら絶対白状しなかったが、いくつになってもかわいい女性には弱い。つい、白状してしまった。

 すると、あとの祭りである。すぐにカメラマンが飛んできて、映された。テレビ放映されてから、後からやってくるテレビに必ず法螺貝をお願いしますと懇願されるようになってしまった。

5.道具、麹室へのこだわり

 家に居るときは、酢の香りは仕込桶の側まで行かないとわかりにくい。しかし、2、3日旅行などで家を離れると、帰ったとき、車なら100mほど近づくと酢の香りがわかる。そして、発酵状態の良し悪しが香りでわかる。

 私はできるだけ昔のままの酢づくりの形を残したい一心で、一人の酢づくりの職人としてやってきた。

 酢はその種類によって完成する日数が変わってくる。玄米黒酢の場合、麹づくりから貯蔵期間を入れて500日、米酢の場合は2〜3ヶ月、沈殿した諸味はしぼり漕でしぼる。

 しぼり漕は桜の木の大木から作ったと先代から聞いている。確かに固くて組木がしっかりしていて漏れない、鉄のように重い。わが醸造蔵の象徴のような道具である。

 諸味は袋に入れて、テコ式の金具を用い若者二人で力を合わせてしぼる。油圧機、水圧機というボタンひとつでしぼり労力が全く入らない方法もあるが、これでしぼると、板のように完全にしぼり出てしまうので、不要なものまで出してしまうという頑固なまでの思い入れがあり、昔からのテコ式を使っている。

 江戸時代から明治にかけては、石積みの方法でしぼっていたらしい。ポタッ、ポタッと落ちる酢の垂れる音が精のように感じる。

 先代からの老朽化した麹室も10年前に改造することになり、業者が『こんな室はもう古い。労力がかかって大変。今はボタンひとつで麹ができる方法がある』としきりに勧められた。

 一時はそれに変える気になったが、今までは完全手づくり、手の感触、手のひらの感触で麹をつくり、夜中までやってきたからこそ、心のこもった麹ができるような気がした。これが真の手づくりの麹である。簡単にできる方法は経費も少なくて済むし、第一労力がかからない。しかし、あえて今までのような労力のかかる昔式の室を復元した。

 昔は練炭や七輪で室を暖めた。寒い夜中に起きて室に入り、中が暖かいため気持ちよく寝てしまうことがあった。ハッと気がつき起きる。頭がボーとする。吐き気がする。フラフラして気分が悪い。慌てて飛び出したことが何度あったか。当時は一酸化炭素中毒を知らなかったのである。今までよく生きてこれたな、と思う。

 それだけに次の代にはこれだけは、安全な方法にしなければならないと思い電気屋に相談したところ、電線を室全体に張り巡らせると、電線は50℃以上には上がらない、サーモスタットで調節すれば全く安全というので、今はこの方法でやっている(写真2)。

蔵の外観

6.終わりに

 昔からの手間がかかり労力のかかる作業は大変だが、それだけに遣り甲斐があり労苦は苦にならない。でき上がった麹に愛情を感じ、いつも頬を摺り寄せ口に頬張り、本当の手づくりの麹に誇りを感じている。

 この麹と名水を使って、昔からの古式醸造酢が私流の醸造道、発酵道により、精魂込めてつくられるのである。

 私の命は酢の中に生まれ、酢の中で育ち、酢の彼方へ去っていく。

こさか・せいじ
会名会社 丸正酢醸造元 代表社員
1927年生まれ
1945年 旧制和歌山県立新宮商業学校
     卒業・家業に従事
1986年 二代目死去につき、代表就任・現在に至る